ヴィトゲンシュタインの思想を考える

   

 

いらっしゃいませ。

皆さんはこの人の言葉に救われた、この人の考え方に影響された、と言えるものはありますでしょうか。

今回は私が大きく影響を受けた哲学者、ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの思想についてです。
言語に主眼を置いた世界観は、私にとても響きました。

大きく前期と後期に分けられますが、今回はどちらも確認します。

それではお付き合いくださいませ。

 

前期「写像理論」

 

前期ヴィトゲンシュタインは、「写像理論」というものを考えていました。
言葉と現象は対応しているという考え方です。

例えば
「昨日雨が降ったから、川が増水している。」

という言葉があったとき、現象をそのまま表していると言えます。

言語とは、世界をありのままにそのまま表すものだということです。

つまり、言語が世界の限界で、想像力の限界でもあります。

私たちの思考も、すべて言語を使っています。
言語なしでイメージを思い浮かべることはできますが、現在のことしかわかりません。
上の例だと、「昨日雨が降った」ということを把握できないのです。
また「増水している」も、「普段と比べて」という言葉が隠れているわけですが、これを掴むことができません。
せいぜい「川が流れている」光景を思い浮かべるくらいのものです。

私たち人間は、言語の獲得によって過去や未来へアクセスすることができるようになりました。
そういう概念を理解することができるようになったのです。
しかしその代償に、言語が記述できないことは想像もできなくなりました。

私たちは言語の中でしか考えることができないので、その外側は見ることもできないのです。

つまり、「語りえないもの」が存在するということです。

ヴィトゲンシュタインは当時の思想を「論理哲学論考」という本にまとめ、これで哲学的な問題はすべて解かれたとみなして、一度哲学から離れます。

 

後期「言語ゲーム」

 

後期ヴィトゲンシュタイン思想の基本概念は、「言語ゲーム」と呼ばれます。
なお、これは「哲学探究」という本にまとめられています。

言葉の意味を、外から見た物体(対象)や内に秘めた性質(共通性質)ではなく、特定のゲームにおける機能として理解すべきであるとしました。

ちなみに、この時の「ゲーム」とは、勝敗を明確に決めるという意味ではなく、「遊び」に近い意味です。

わかりにくいので例を見てみましょう。

色に関する言葉を何も知らない、二人の子供A.Bがいます。(Aはあなただと思っていただいて構いません)
Bは色覚がAとは違い、快晴の昼の空が赤く見えています。
そこで、二人に今の空の色を「青い」と呼ぶことを教えます。
「空が青いね」とAが言うと、Bは「そうだね、青いね」と返します。

このとき、二人はお互いに実は違う色を思い浮かべていることに気付くでしょうか。

結論から述べると気づくことはありません。
なぜなら、会話(言語)は色そのものではなく、使い方で成り立つからです。
これが、言葉の意味はゲームにおける機能であるということです。

前期の「言語は世界をありのままに写す」とする理論からは大きな転換ですね。

私はこの「言語ゲーム」の話を学生時代に知り、衝撃を受けました。
というのも、私は子供の時分からみんな同じものが見えているわけはないと思っていたからです。
会話が成り立っているのは、成り立っているように見えたのは、同じものを見ていたからではなく、言葉の使い方が一致していたからなんだと知りました。

そういう意味で、言語ゲームの世界観が今の私の基礎となったといっても過言ではないのかもしれません。

 

私の認識

 

私はヴィトゲンシュタインの哲学を「世界=言語」と認識しています。
絶対的に正しいわけではないですが、少なくとも今の私はそう思っています。

世界の果ては言語の限界にあり、それ以外は記述されない「語りえないもの」なのです。
人間の気持ちとか、言語になる前の混沌としたものはきっと存在します。
が、それは他者に正確に伝わることはなく、どう伝わったかどうかもわかりません。
そして混沌とした原初の気持ちは言葉になると本質から離れていきます。

ただ言葉の使い方が一致しているがために会話は成立しています。

人はみんな違う世界を見ており、言葉によって無理やり枠に当てはめているのです。

生まれた瞬間から、徹底した言語ゲームによる教育を受けているわけですね。
言語は公共性のあるものであり、ある個人に限定されないものです。
例えば「私は歯が痛い」と言ったとき、「歯が痛いんだね」と返されます。
しかし、この痛みは私にしか感じられないのです。

ヴィトゲンシュタインはこう言います。

他人は「私が本当に言わんとすること」を理解できてはならない、という点が本質的なのである。―――青色本

本当に言いたいこと、さっきの例では痛いという感覚は他者には理解できない、これが本質だということです。
言葉はその実なにも伝達できていないのです。
そしてなにも伝達できないことこそが本質なのです。

そんな風に思うと、私は少し楽になりました。
本当はみんなそれぞれの感覚で生きていると思えたからです。
私の感覚だけが伝わらず、私だけが他人の感覚がわからないわけではないからです。

 

今回は当ブログ初の哲学者のお話でした。
ここまで読んでいただいて、なにか考える機会になれたら幸いです。
参考文献として、ちくま新書の永井均著「ウィトゲンシュタイン入門」をあげておきます。
永井均さんはヴィトゲンシュタイン哲学の研究者として有名な方で、この本も読みやすくかつ内容も濃かったです。
興味をお持ちであればぜひ手に取ってみてくださいね。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

 

スポンサード・リンク

 - 哲学者