思考実験「スワンプマン」を考える

      2017/06/25

 

いらっしゃいませ。

突然ですが皆さんは、「自分」をどのようなものだと捉えていますでしょうか?
あるいは、他の人をどのような存在だと思っていますか?

替えの効かない唯一無二のもの、でしょうか。

今回はそんな常識を打ち破る有名な思考実験、「スワンプマン」を考察してみましょう。

 

スワンプマンの概要

 

スワンプマンとは1987年、アメリカの哲学者であるドナルド・デイヴィッドソンが考えた思考実験です。
概要は以下の通り。

 

ある男がハイキングに出かける。道中、この男は不運にも沼のそばで、突然 雷に打たれて死んでしまう。その時、もうひとつ別の雷が、すぐそばの沼へと落ちた。なんという偶然か、この落雷は沼の汚泥と化学反応を引き起こし、死んだ男と全く同一、同質形状の生成物を生み出してしまう。

この落雷によって生まれた新しい存在のことを、スワンプマン(沼男)と言う。スワンプマンは原子レベルで、死ぬ直前の男と全く同一の構造を呈しており、見かけも全く同一である。もちろん脳の状態(落雷によって死んだ男の生前の脳の状態)も完全なるコピーであることから、記憶も知識も全く同一であるように見える。沼を後にしたスワンプマンは、死ぬ直前の男の姿でスタスタと街に帰っていく。そして死んだ男がかつて住んでいた部屋のドアを開け、死んだ男の家族に電話をし、死んだ男が読んでいた本の続きを読みふけりながら、眠りにつく。そして翌朝、死んだ男が通っていた職場へと出勤していく。―――wikipediaより

 

初めて見ると衝撃を受ける内容かと思います。

一度確実に死んだ男ですが、まったく同じものが再生成されることで、別物であるにも関わらず今までと変わらない生活を送るのです。
そして、この男と親しい間柄の人でも、男が今までと違うものであることに気付くことはありません。

人は、誰かを認識するときには、その振る舞いでもって判断しているのです。
また、自分自身も自分になにが起こったのかを認識できません。
せいぜい雷が近くに落ちてびっくりしたなぁ、くらいのもんです。

そう考えると、「自分」というものは思っているほど確固としたものではないような気がしてきますね。
そして、唯一一人称で考えられる「自分」が揺らぐのであれば、「他人」はもっとふわふわした存在のように思えます。

実際にこの人は目の前に存在しているのか、私の意識がそう錯覚しているだけなのか。
あるいは今生きていると実感している自分は、本当にここに存在しているのか、そう思い込まされているだけなのか。

 

独我論

 

自分だけは今確実に考えているから存在している、とするとき、問題は「ほかの人が存在しているかどうか」になります。
これを「独我論」と言いますが、独我論に悩まされた哲学者が多くいました。

例えば、あの人に話しかければ返事をしてくれるし、この人は手を振れば振り返してくれる。
しかしそこにその人の意識があるかはわかりません。
自分の意志で返事をしてくれているのか、こんな返事をするというプログラムが働いているだけなのか。
怒りっぽい性格や優しい言葉遣いも、そのように行動するプログラムが組まれているに過ぎないかもしれない。
人が誰かを認識する根拠は、やはり振る舞いでしかありません。

振る舞いの中身を見ることはできません。
あの人がなにかを考えているのか、意識が存在するのかどうかもわからないのです。
(これを「哲学的ゾンビ」と言ったりします。)
生きているように見えても確たる証拠がないのです。

 

この考え方を他者から世界にまで広げたものが、「世界五分前仮説」と呼びますが、この話はまた今度。

 

今回は自己同一性を揺るがす思考実験でした。

皆さんは今でも自分は「自分」だと言えますでしょうか。
仲のいいあの人たちを生身の人間だと確信できますでしょうか。

考えれば考えるほどに不安になるかもしれませんね。

よろしければあなたの考えを教えていただきたく思います。

それでは最後までお付き合いいただきありがとうございました。
またどこかでお会いできれば幸いです。

 

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